2017年9月13日水曜日

英会話

 英会話を教えるという漠然とした何かより文法と発音に範囲を限定することで確実な成果を得ることの方が私には大事だった。それは英語は文法と発音で出来ているため、それらがわからなければ本人の英語の質そのものも落ちるので、まずはその2つを芯から理解する、というのが最大の優先事項であった。

 英会話ってそもそも何?
たとえいくらお金を積んでどんだけ事前に必死に勉強していたとしても、いざとなって『あ、、、、』と話せなければ、『やっぱり話せないじゃん』となってしまう。それが教えてる私の責任になるのはたまらなく嫌だった。成果の出ないものにお金をもらう重責に耐えられなかった。
だから英会話だけはタダでやった。そのかわり、やったからってすぐに話せるようにはならないよと。


実際に25年近く、月1回ずっと今もタダでやり続けている英会話のクラスがある。
私として何か努力をしているかと問われると、何もしていないに等しい。英語で何か最近思ったことなど何でも話してもらい、出来なかった表現や文法や発音などをメモり、さっと説明し理解してもらうぐらい。
お金ももらわないことで責任からは解放されており、いたってのんびりとした授業である。
たまに『藤井さん、普段教えてるようにやってよ~』とお願いされるが、いざやってみると、『もういいわーーしんどいわーー』とギブアップされる。つまり私が普段やっている授業は意図せずとも相当こんこんとした厳しいものらしい。

 教師は生徒に出来るようにさせることが仕事であり、そういう意味では私は厳しいかもしれないが、私から言うとそれは優しさと責務なのだ。
多くの場合先生は言いっぱなしだったり、肩書きに物言わせてたりする。私は子供の頃から先生は好きではなかったので、そういう本当に生徒を出来るようにさせることの出来ない人は教師ではないと思っている。肩書で先生になれるわけではないのだ。
私は出来ない限りイエスと言わない。出来ていなければほめない。それは出来るようになって欲しいからだ。出来なければ何とか試行錯誤し一生懸命教え続ける。でも最期出来るようになった時は本気に一緒になって喜ぶ。本当に嬉しいから自然な言葉として出る。『ほめる』とはちょっと違う。
生徒がわからないのは教師の責任だ。教え方が悪いから生徒はわからない。わかるように教えることを学ばねばならないのは教師側なのだ。そうするからこそ必死に模索し、あらゆる生徒に対応出来る教え方が編み出され、自分の教え方が確立していく。そしてまたわからない生徒に出逢えば再度頭をひねる。

 最近そんな私に挑んでくるある生徒が現れた。私があれほど『やらない』と言っている英会話を『話せるようになりたい』と熱望し訴え続けてくる。なかなか引き下がらない。そして私は屈し、この方のために今まで自分が避け続けていた英会話を教えるということについて、考えざるを得なくなった。
その方にはしばらく待って欲しいとお願いをした。

 英会話を教えるしんどいところは『ゆっくりわかるように話さなければならないこと』である。
私は日本語でも早口だし、英語でもバババーッと喋る。
ゆっくり話す行為とは、ご高齢の方々とお話しするのととてもよく似ていて、
相手のわかる表現や文法の範囲を瞬時に判断しつつ、その範疇内で、かつゆっくりめに聞き取れるように発音して喋らねばならず、制限されとても疲れるのである。これも私が英会話を教えない別の大きな要因だ。

 数ヶ月間悩み続けた。
いくら考えても、『お金をもらうとは目に見える確実な成果を上げること』=『英会話』というものが自分の中で結びつかなかった。
話すって何?どうやれば人を話すようにさせることが出来るの?いくら学んでも話せない人は話せないじゃない?どうしたらいいの?頭の中はハテナで一杯で完全に追いやられていた。

 私は幸運にも、偶然『発音・文法・話す能力』の3つを持ち合わせていた。
その中の『話す能力』とは人に教えれるものではないのだ。
私にとってそれは何かと聞かれれば、『頭の中の真っ白な状態から何の躊躇もせず瞬時に物事(言葉)を引き出していく力』である。
日本語でも同様である。今、私はあることを思いながらこれを書いているが、書いている間、次に書くことは言語化されておらず漠然と『思い』という形で心の中に存在している。
それを言葉に出す瞬間に、日本語という言語を通して外に出していくのだが、その瞬間は理屈などではなくほぼ無意識に瞬時に色んな判断をしている。英語も同じだ。考える前から喋っているというのがその表現にふさわしい。
私の場合はネイティヴではなく確かに第二言語なのだが、子供が言語を覚えるように、人から何故英語が話せるの?と言われても、自分ではわからないとしか言いようがない。考える前から口にどんどんついて出てきて、使っていないから忘れるということもない。いつも体の奥にある。

 自分が無意識に行っていることを一体どうやって人に教れるの?謎は大きくなるばかりで、数ヶ月間答の無いままモヤモヤの中を進んで行った。

 そしてついにこれだ!!と思えるやり方に到達した。
そして先日、ついにその方法でその生徒に実施したところ、大きな満足を得てもらうことが出来た。当然私もだ。
試行錯誤して良かった。これで私も英会話をお金をもらって行うことが出来る。
私自身もゆっくり話すことなく苦痛なく、表現はややわかるようにコントロールはしたが、1時間30分ほぼ英語のみで中身のある会話を行うことが出来た。日本語で友達と話すのと同様、筋書き無しで話はどんどん面白い方に進めていく。
正しい表現や文法は一応メモって渡したが、勉強ではないので覚える必要もなく忘れていいよ、と言って渡した。
『話すことそのもの』『どんどんと面白い方向に話を進めていくこと』に集中したとってもいい授業だった。

 これからの私は『英会話を教えて欲しい』と言われれば素直に応じるだろう。自信が出来た。
彼がいなければ私の何十年ものスタンスを変えることは無かっただろう(英語を教え始め実に35年である)。
まさに新しい境地で、35年も英語を教えてきて、今だ日々試行錯誤し変わり続けられることが嬉しい。

 その生徒さんが今日フェイスブックに、お願いもしていないのに、自ら私の紹介文を書いてくれた。涙が出た。

 この生徒さん、実に明るく、いつも2人で大笑いしながらの授業なのだが、ご本人はこの間私が何をどう悩んだか想像することもなく、ハッピーにのんきにいることと思う。でも会話の授業に光が見え喜んでくれていることと思う。

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